ピアノレッスン 1
「春風の中」

今日は4月25日、火曜日である。
火曜といったらだいたいの美容室は休みである。
その例に漏れず、我らが「パアプウ」もお休みである。
そしてそれと同時に「パアプウ」の中で特別の日を迎えている人がいたのである。

春風の中、彼女が笑っている。
そう今日は柳田の結婚式である。
「もうあれから半年か…」
不気味ショップ「ガイコツ」の店長、紅エミは両手を高々とあげ、背伸びをする。
この展開は誰にも予想できなかった。
エミが井の頭公園で柳田の涙を見た夜から3日後、
柳田は運命の人というべき、いま彼女の隣に入る「笠師タカフミ」に出会ったのだった。
彼女にあの頃の切なさなどみじんもない。幸せそのままに彼の腕にしがみついている。
「愛する事に時間はいらない」
エミはまた、永遠の愛ノートに一行加えた。
彼女が経営している不気味ショップ「ガイコツ」には永遠の愛ノートというノートが有り、客だろうが店員だろうが勝手に恋愛の事について書いていい事になっていた。
そして今日、エミは永遠の愛ノートに1行付け加えたのだった。

「柳田さん、幸せそうね」
背中から声がした。
振り返ると「パアプウ」の美容師で柳田の後輩の宮寺が腕組みをしながら歩み寄ってきた。
エミは左側の頬を緩め、両目を細めながら言った。
「あれ?見違えるね、今日は」
「あっ、それどんな意味で?」
宮寺が微笑みながら言う。
エミがどういう意味で言ったのかはもちろん彼女には解っていたのだろう。
その自信に満ちた微笑みで解る。
「きれいだよ、いつもの事だけど、特に今日は」
エミは身長170cmをこえ、宝塚の男役を思わせる中世的な顔をしていた。
「パアプウ」の中にも密かに思いを寄せている子が多いという。
そんなエミに見つめられ宮寺はドキッとした。
「それに、可愛いドレスだね」
エミは視線を逸らさぬまま続けた。
「あっ、服がきれいって言うんでしょう」
宮寺は照れ隠しに背中を向けた。
実際それもあったが…、少し大きいのではないかとも思った。
「いやそういう意味じゃなくて。でも少し大きくない?」
「うん少し…。これお姉さんから貰ったものなの」
「ふーん。姉さんの?貰ったの?」
「うん」
「そうかー、姉さんのか…」
そこでエミは彼女の隠された過去を思い出した。
「よく似合うよ」
「ありがとう、エミさん」
彼女のまぶしい微笑みと春の精が、エミの心を一年前の世界へ連れていった。

去年の今頃一緒に井の頭公園の盆栽展を見に行った事があった。
その時彼女は言った。唐突に。
「他の誰にも言った事がないんだけど、、内緒にしてくれる?」
「エーわかんないわよ!話す・か‥も…」
エミが笑いながら隣の宮寺を見た時、彼女の笑いは引きつった。
宮寺がいつもの宮寺ではない。
いつも陽気(と言うか軽い)でカラオケが得意な宮寺ではない。
彼女はそこに置いてあった一万八千円の松の盆栽をイジイジしていた。
そして切なそうな目でエミを見た。
(これは相当の覚悟が必要だな)
不気味ショップ「ガイコツ」店長、紅エミは静かに息を吐いた。

昔、といっても十年程前だが、宮寺家は東京八王子ではちょっと有名な豪邸に住んでいた。
ところが日本人形の輸出業をしていた父親が、円高のあおりを食って、事業に失敗した。
そして宮寺家はその代償としてその豪邸を手放さなければならなくなった。
三代に渡って宮寺家を守ってきた家。
大きな庭には四季折々の花が咲き乱れる。

もちろんきれいな花を咲かす事に関して母にかなうわけがなかったが、
おてんばだった彼女は庭を走り回ったり、大きな楠に昇っては周りの大人達を慌てさせていた。
彼女はその木の上から見る景色が好きだった。
北を向けば高尾山をまじかに控え、南に八王子の街がミニチュアのように見える。
そして何よりも好きだったのは家でピアノを弾く姉の姿が見られる事だった。
洋風づくりの白い家、大好きな姉、ピアノの音。すべてが一つになって彼女を包み込んだ。
彼女の家には白いグランドピアノがあった。

家を建てた時に買ったらしい。
ピアノは宮寺家の歴史を刻んでいた。
そしてピアノの椅子には空飛ぶダンボのクッションが置いてあった。
それは彼女の姉がいつも使っていたクッションだった。
家を出る前の日、姉は泣きながらピアノを弾いていた。泣きながら何時間も。
宮寺はその様子を木の上から見ていた。
そして小鳥と一緒に何時間もピアノの音に耳を傾けていた。
彼女は姉が可哀想でならなかった。才能豊かな姉。
しかし姉はピアニストへの夢を断念しなければならなかった。

「お姉さんはね、とても才能あったのよ、そして…」
宮寺は言葉を続けた。

つづく

 パアプロード表紙 / 「背中にバラを背負う女」