パアプウロード
第五章[願い(絆)]

その1 「ありがとう、パン!」


日本に戻ってきた原が生まれ故郷の長野についたのは5月17日の午後2時をまわっていた。
成田空港では大勢の警察やマスコミの人がいた。
きっとハイジャックの事だろうと原は思ったがあまり気にしなかった。
忘れな草の鉢を抱えた原の横を秋元が通り過ぎていった事も、もちろん気がつかなかった。

長野駅から実家のある松本に戻る途中にいつも買って帰るパン屋さんがあった。
彼女がその店に入るとちょうど焼き立てのパンを並べているところだった。
「いま、どのパンが焼けたんですかァ?」
原は店員らしき女性に訪ねた。
「え〜と、いまはですねぇ…」
といって店員は顔をあげた。
その瞬間お互いを指差しあい。店内という事も忘れて大声をあげた。
「原さ〜ん!」ピョン!
「堀内さん!」

美容室「パアプウ」最年少、堀内。
彼女の実家は熊本で米屋を営んでいた。
だが困った事に堀内は米が嫌いだった。
いや嫌いだったというよりパンの方が好きだったというべきか。
そして将来、パンづくりの仕事につく事が幼い頃からの夢だった。

堀内は熊本県立熊本商業高校を卒業すると、東京の洋菓子専門学校に進学した。
しかしそこで学ぶ事は堀内が望んだ事とは程遠かった。
パンが単なる洋菓子のなかの一部でしかなかったからだ。
堀内が目指した事はただひたすらパンを極める事だった。

専門学校を辞めた傷心の堀内は、肩まであった長い髪を切る為美容室に入った。
髪を切って気持ちの整理をつけて熊本に帰ろうと思った。
しかしその美容室で運命が変わった。
彼女が入った美容室は 武蔵野のなごり漂う場所に構える美容室「パアプウ」だった。
堀内は独学ながら何百回もパンを作っていた。
そしてパンの命は生地だと思っていた。
練る時の力の入れ具合が全てと…。
それはシャンプーをしてもらってる時にふっと思った。
(この小さなからだのどこにこんな力があるのかしら?)
この時シャンプー係だったのはまだ「パアプウ」に入店して間もない、生まれつきからだの弱い大田だった。
そして堀内は思った。
(これだ!この指の使い方だ!これはパンを練る時の練習になるわ!)
帰り際のレジで堀内は「この店に入れて下さい。お願いします!」と何度も頼んだ。
そして「店長〜」と呼ばれ奥の部屋からこの店の主が現れた。

「お嬢ちゃん、年はいくつ?」
すでに店長だった秋元が目を細め、煙草のけむりをフーと天井に向けてはいた。
「じゅ、じゅうはちです!」
あまりの迫力にしどろもどろで答えた。
熊本出身の堀内には目の前にいる秋元が阿蘇山のように大きく見えた。
「明日からきな…」
それだけ言い残すと奥の部屋に向い歩き出した。
「あ、ありがとうございます!」

それからの2年間堀内はひたすらシャンプー係をつとめた。
そして休みの日にはパン屋めぐりをして舌を鍛えた。
若くて明るい堀内はみんなに可愛がられた。

ある日いつものように本屋でパアプウのお客さんが読む用の本を買ってると「TANT」という雑誌の巻頭特集に目がいった。
「ありがとう、パン!」
パンに感謝しようという企画で評判の店がいくつか載っていた。
そして読者体験コーナーという企画があった。
長野にパンのうまい店があり、その店はよりパンをよく知ってもらう為に一週間、寝起きを共にしパンづくりを教えてくれるという。
早速堀内は葉書を出した。
そして見事に堀内は当選した。というよりそんな企画に申し込んだ変わり者は彼女だけだった。
渋る主任の近藤から5月15日から一週間の休みをもらった。
そして原と会ったこの日はここに来てから2日目の5月17日だった。

「フーン、がんばってるわねぇ、堀内さんは夢に向ってるね!」
だいたの話を聞いた原は堀内に優しくいった。
「ありがとうございます。がんばりまーす!」ピョン!
そして2人は近いうちにまた会いましょうと約束して別れた。
しかしその日がこんなに早くこようとは誰も思わなかっただろう。

全ては謎の夢から始まったのだ…。

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