「背中にバラを背負う女」

吉祥寺のとあるBARにハンクウイリアムスの曲がかかり始めた頃、彼女はこう呟いた。
「運命の愛って本当に在るのかしら?」

東京はJRの山手線。武蔵野の面影を残した街、三鷹。
美容室「パアプウ」はその町外れにひっそりとたたずんでいた。

木漏れ日の中、彼女達の囁き合う声が聞こえる。
「最近の柳田さんは何か違うわよねぇ」
美容室のフロアーの中央で柳田が仁王立するかのごとく、モップを手に45度上を見つめている。
季節はもう秋を迎えようとしているのに彼女の周りだけ、通り過ぎた暑い日々を思い出さんとするかのようにまぶしく輝いていた。

「柳田さん!今日も背中にバラを背負っているわよ!」
同僚の松井が、かん高い声を張り上げる。
その声は美容室「パアプウ」のフロアー全体に響き渡る。
「何、今の大きい声は?」
店長の秋元が慌ててトイレから飛び出してきた。
「あ、私です…。店長」
その秋元の両目を真ん丸にした形相に松井は小声になってしまった。
「だって、ねぇー」
と松井がもじもじと揺れていると、後輩の宮寺が横から顔を出す。
「店長!最近の柳田さん何かハッピーだと思いませんか?」
いつもの宮寺の軽いのりに秋元も思わず口元をへの字に崩す。
「んー、そうねぇ、私も薄々と感じていたんだけど…」
と柳田の方に顔を向ける。
その片隅で同僚の原が静かに松井の頭をナデナデしている。
「何か良いことがあったのかしらねぇ」
秋元は親指と人さし指で顎の当たりを撫でながら誰彼なく微笑みかけた。

「店長も鈍いですねぇ」
主任の近藤が朝食のサンドイッチを手に話しに加わる。
三鷹駅から「パアプウ」に歩いて向かう途中にサンドイッチを買うことが近藤の日課になっていた。
近藤主任は言った。
「恋ですよ、恋」
「えー!恋ですか、素敵!」
一番若い堀内が両手を頬に当て、飛び上がる。
ピョン!
それぞれの勝手な想像で、まだ開店前だというのに店の中は異様な熱気に満ちあふれている。
ただ柳田だけが未だ45度上を見つめ、何か内に秘めた決意をしてるようだった。
注 もう一人のメンバー太田はお休みです。
(彼女は生まれた時から体が弱かった)

実際、柳田は恋に落ちていた。
しかしその恋は行き先の決まっていない列車のように、ただ結末のない旅に出ていた。
彼女が愛した相手は、妻子ある身だった。
そして自分がどういう立場で、彼にとって帰る場所がどこにあるのか?
柳田はそれは自分の処でないことは良くわかっていた。
「背中のバラなんて…。そうかぁ、私の迷いの種が大きくなったのかもね…」
誰にも聞こえない声でそうつぶやき、下を向いた。

その日の夜の11時過ぎに、柳田は吉祥寺のとあるBARにいた。
彼女は赤いワインの入ったグラスをひとりぼんやりと見つめていた。
もう彼(小川ユウジ)と逢うことはないだろう…

「私と一緒になって下さい」
柳田と小川はいつも月曜日の夜9時25分に、井の頭公園で逢うことになっていた。
あいにくの霧雨の中、彼女は最後の切符を握りしめた。
いつもは自分の心を明かさない彼女の言葉に彼は驚いていた。
「だっていつも言っているじゃないですか、運命の愛の事を!」
そして彼女は涙目になった。
柳田は彼と過ごした思い出が、たった一つの涙で消えるように思えた。
だから泣かないように頑張った。
小川ユウジはそんな彼女の目を見れる余裕はなかった。
「その事はまたゆっくり話そう…、今日は仕事の仲間と飲み会があって、ごめん…」
肩をポーンと叩くと傘もささずにその場から立ち去った。
肩を叩かれた体がまるで木琴楽器のようにコーンと響き続けているように感じた。
そして響きを感じなくなった体を脱力感が包んだ。
柳田は傘を放りだし、霧雨の空に向かって顔を突き上げた。
涙が耳の穴にまで入り込んできても柳田は気にしなかった。
(なぜ、あんな男に…)
自分が情けない気がした。

5杯目のワインを飲み干し、右手の人さし指で、空いたグラスの上をとんとんと叩きながら
柳田はまた呟いた。
「運命の愛ってあるのかなぁ」
するとどこからか声が聞こえてきた。
「信じる事だよ自分を、そして自分の未来を!」
柳田が後ろを振り返るといつもの「パアプウ」の連中の笑顔がまっていた。
しかし柳田は酔っていて、その声が誰のものかわからなかった。
「柳田さん!運命の相手に妻子がいるわけないでしょ!」
一瞬柳田は「パアプウ」のみんなには内緒にしていたはずなのに、なぜ知っているのかと思った。
だが疑問は酔った頭の中でもすぐ解けた。

柳田と小川が待ち合わせに使っていた井の頭公園のすぐ手前に、
不気味ショップ「ガイコツ」と言う店がある。
そこの店長である紅エミという女性は「パアプウ」の連中と親交が深かった。
太田がときどきその店でトランプ占いをしている事がきっかけだった。
柳田は、そのエミのことを思い出した。
「エミさんに見られたか…」
すると何かすっきりとした気持ちさえした。
みんなに隠している事は柳田も楽ではなかった。

店長の秋元が赤い顔をして、柳田の肩に右手をまわすと酒臭い息と共に吐き捨てるようにもう一度言った。
「運命の相手に妻子がいるわけないでしょ、あーた」
柳田はなぜかとても嬉しそうに笑った。
「店長、それ厳しいですよ」
松井が横から首を振りながら止めにかかる。でも目は笑っている。
「柳田さん気にしないで。店長さっきまでいた店でしこたま飲んできたから…」
近藤が柳田の顔に近付き、言った。
「店長カラオケ行きましょうよ」
カラオケ好きの宮寺が秋元の肩に手をかけ、柳田から引き離すようにしながら言った。
「よーし!行くか!」
秋元が背伸びをするように体を伸ばし、顔を上向き加減で言った。
確かに秋元は酔っていた。
それは彼女が夫と別れてから今日がちょうど5年目の「離婚記念日」だった事が関係していたかも知れない。
「店長素敵!」
堀内が飛び上がって喜ぶ。アルコールのおかげで彼女のジャンプ力もいくぶん増したようだ。
原は最後に店を出た。そして目の前にいる柳田の顔を心配そうに覗き込んだ。
しかし彼女の目の奥に見えるのは、強い意志だけであった。
柳田は空を見上げた。
雨はもう止んでいる。
そして雲の狭間から星の輝きを見つけた。ビルとビルに挟まれた小さな輝きを。
柳田は自分の口元に両手を近付けた。
そして誰にも聞かれないように言った。
「信じる事だよ自分を、自分の未来を、ね」
その時一つの流れ星が夜空を走った事に気付いたものは、誰もいなかった。

美容室「パアプウ」
そこには青春の香りが満ちている。

 パアプロード表紙 /